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■研究会のあゆみ

●30年の記録(1982年7月3日) PDF表示

●美術教育研究会50年のあゆみ  PDF表示 巻頭写真 本文

 

●研究会略史

京都市立芸術大学美術教育研究会50年のあゆみより

●略  史

本会の発足は昭和27(1952)年2月、美術大学講堂で行われた結成総会であったが、その気運はそれ以前から美術大学の学内、学外ともに高まりつつあった。

当時は、戦後の教育改革も軌道に乗り、教育基本法、学校教育法に基く6・3・3制の学校教育体制も確立し、その中で美術専門学校も旧制の専門学校から新制の大学へ移行した。美術専門学校は昭和27年3月には、23・24年入学生を同時に卒業させ、美術大学に移行したのである。

昭和27年2月には、美術大学は「教職課程」を設置した。これは戦後の開放制教員養成制度に基くもので、これにより学生は美術大学を卒業することと共に、本人の希望によっては教職課程を履修し教員免許状を取得することができるようになった。大学においても、教職課程関係の教育と研究に対応が必要となるのは当然のことであった。

教員養成系の国立大学では、教育研究には実践研究が欠かせないことから、附属校の設置が行われた。一般大学の教職課程の認可にはそこまでの条件はなかったが、卒業生の教育実践の場が、大学の研究と密接に関わることは望ましいことであった。

本会発足当時の会員には美術大学卒業者はまだ1人もなく、すべて美専、絵専(旧制専門学校)の卒業生であり、所持していた免許状は、文部省から直接受けた旧制中等教育(旧制中学校・高等女学校・師範学校)の図画、用器画の免許であった。このように戦前昭和期以前から、事実上中等教育教員養成の歴史を持っているのは、今日数多い美術系大学の中で東京美術学校(現東京芸大)と京都市立絵画専門学校(現京都芸大)の二校だけである。

ただ当時の美術教育思想から当然のことながら学校は美術創作の専門教育を行っていたのであるから、そのまヽ教員となった卒業生には戦後の新教育に戸惑いもあり、自己の創作活動と教育公務との両立に悩みを大きくしたのは事実である。

折りから新学制へ移行する際の人事異動に、不当な処遇を受ける例も多発し、あまつさえ給与体系の学歴格付けで、旧絵専の5年制専門学校の例が他にないことから「4年制」の枠に位置付けられる事態も起り、行政の不当な扱いに抗議するなどの、止むに止まれぬ同窓生の集団行動に盛り上ったのである。このような種々の問題が発端となり昭和23年結成されたのが京都、大阪の「双線美術」、兵庫の「二葉会」であった。「双線」の名は、美術創作と美術教育の二つのみちを両立させ、両者相乗作用によってともどもの向上発展をはかるという趣旨であった。このような自主的研究団体が、地元の京都、大阪、兵庫につくられていたことと、大学が旧時代の卒業生に対する後補的再教育に熱意を持ったことが学長を長とする研究団体に結実したのである。

「研究大会」と称する研究集会は、当初は本会の唯一の集会行事で、昭和30(1955)年までは年2回行われ、第36回大会ごろまでは研究発表者の人選も分担申合わせに基き、支部役員会で行われた。

発表の内容は個人の自由なテーマの発表であったから大会毎の独自な特色はなかった。

本会の大会の特色は講演にあり、当初から本学関係教授陣を中心に後年に至るまで、その顔ぶれは文化勲章の受章、重要無形文化財保持者や国立芸大学長 国公立美術館長 文部省教育課程審議会会長や有名作家、学者、評論家等、全国的な著名人が多かった。

大会の行事の、会員の組織的研究活動への転期は昭和37(1962)年で、この年から大会毎に大会研究主題が決められ、それを前年度の大会で決めた。この主題を中心に共同研究を進め、日常的継続的な研究活動の中に大会を位置づけようとしたのである。この趣旨を具体化するため、「研究部会」が発足した。

研究会の中に研究部会をつくるということは、党中党をつくることと役員会の中に批判的な意見もあったが、あくまで大会テーマを中心とする研究部会であることと、研究活動、会計等を詳細に役員会に報告することで研究部会は発足した。

その後昭和50(1975)年に至り、このような共同研究だけでなく、一般の学会のような会員個人の自由な研究発表の場の拡充も重要であることから、例会100回を期に研究部の名称も「研究センター」と改め、組織、運営も強化された。

以後、この体制は50周年の第308回まで続いている。

研究部会時代から会員の研究活動には自由なグループ研究があり、昭和45(1970)年にはじめて絵画、版画、彫塑、工芸 デザイン 鑑賞の領域別研究部会や、色彩、特殊教育、幼児教育 評価の問題別研究部会が生まれ、それぞれ何回かの集会を持っている。昭和56(1981)年にはさらに、造形の感覚技術、造形の動機、造形の用語、社会教育、大学短大の研究部会が加わり、中でも幼児教育部会は 昭和45年から51年までの間に、1泊2日の集会を含む14回の研究集会を持っている。平成以後は他の部会同様に一時停止状態になっていたが、平成9年復活し、以後11回の集会を開き、その研究のまとめの集録刊行も進行中である。

やヽ遡って本会発足間もない昭和31(1956)年、日本の教育は戦後の教育の大きな転換期を迎え、教育課程の国定化、道徳時間の特設、教員の勤務評定など、教育の中央集権化の中で,美術(中学校では当時図画工作)科授業時数の大幅縮減の問題が起った。本来研究団体である本会においてもこれを無視することはできず、全国の友宣団体と共に対策運動に力を盡した。この時は行政管理の研究団体でさえ地元の当局や文部省に対して働きかけを行い,全国的な運動に盛り上った。

この種の問題は戦前にも度々教育史に遺されているが、いつも決論が出てしまえば終止符が打たれている。にも拘らずこの時は学習指導要領の告示後も運動が広がり,教育委員会の基準案や学校でのカリキュラムづくりの段階まで運動は続き、中学校美術の週時数2・1・1の指導要領の最低基準を上まわる2・2・1や,2・2・1.5を確保する例が全国の各地で見られた。本会においても会長(学長)名の要望書を各方面に送付した。この様な運動が実り、次の昭和44(1969)年の改定では「工芸」を復活して時数も必修2・2・1までを確保した。その後ほヾ10年毎に教育課程改定がくり返されたが,本会は一貫してこの問題に積極的に取組んだ。この運動は人間教育と一体である美術教育を守る運動であり、会員のひとりひとりが美術教育の理念を根拠に周囲の説得に当らなければならず,そのためには否応なく目に見える自己の教育実践を示さなければならないのであるから,本会の運動も、研究と実践と一体のものとして進めることができたのである。

またこのような運動は、個人的な活動だけでなく、多くの美術教師が手をとり合い協力してこそ成果を得るので、本会の集会においても会則上の同窓の枠にとらわれず,事実上の門戸開放を行ってきたのである。例えば,本会主催の昭和39(1964)年の,7日間にわたる油画、版画 陶磁器、漆工、染織の各実技講習会は、教育委員会を通じて全市の学校に周知し、受講は出身者に限定せず この時の受講者で本会会員となった例もある。

しかしながら本会を外から見れば,強大な学閥の形成の如くみられることもあったが、本会の会員は,本会発足の経緯や目的からそのようなことには無関心であったことは事実である。それでも役員会では 会員条項に、「会員の推せん者」の改正が提案されたことがあったが、時期尚早で見送られた。その後、組織運営の諸問題から,会名の変更と会費の値上げ以外に47年間放置されたままになっていた会則の本格的改正は、平成11(1999)年から着手し、会員資格が会則の上でも明確になったのは50周年を迎えた平成14(2002)年である。

本会の事業としては、大会、例会、部会などの研究集会の他に、会員の研究発表、論文などを印刷物として遺すことが,会の発足と同時に行われている。

これは研究団体としては基本的、かつ当然のことであるが、50年間休みなく継続されている例は全国でも極めて少い。

本会の会誌「美」はその主要なもので、その名称は、大正、昭和初期に絵専、美工校友会の定期刊行学術誌であった「美」を復活させたものである。この学術誌には、当時の日本の著名な学者、芸術家が毎号名を連ねている。

本会の会誌「美」は、昭和27(1952)年から昭和43(1968)年までは年1回刊であったが、昭和41(1966)年、大会テーマを中心に研究を進める研究部の、研究記録を全会員に早く知らせる必要から年5回刊の小冊子を、研究誌「美」として、年刊誌「美」と併行して発行した。

昭和44(1969)年、18号からこの両者は統合された。

この時点で、画期的なことは本会会誌「美」は、郵政審議会の答申に基き、郵政省から学術刊行物の指定を受けたことである。この指定は後年に至るほど難しくなり、全国の数多い美術教育団体で他に例を見ない。

会誌「美」の編集部は、度々アンケート調査等によって会員の声をきき、毎年1月には定例の拡大委員会を開き、翌年度の編集方針や特集テーマなど、時局の課題を先取りして投稿応募層を拡大するなど、改善がこらされた。133号から思い切って活字の大きさを大きく変えたこともそのひとつである。平成に入ってから、諸事業が停滞気味の中で、「美」の投稿者は漸増し、近年各号の頁数は過去に例を見ない程増大した。会報発行でも担当者が替ってから、近年内容も充実した。

本会の会員数は、当初は約300であったが、昭和63(1988)年には867となり、平成3(1991)年を頂点として以後少子化の影響などで漸減しているが、50年間の会員は初期の、故人となっている方々を含め1300を超えている。

大会、例会、会誌などでの研究発表者の数は437人(639件)で、本会の会員がもともと美術実技の専攻であることからすれば予想外に大きい。

本会が一般の他の学会や研究会に例を見ない点は、「美術教育」の研究に必要なあらゆる図書、資料を可能な限り蒐集し活用することに早くから取組んだことにある。発端となったのは、大会の研究テーマを前年度に決めたことによる共同研究の組織がつくられたことで、そこで必要となった文献を常に傍に備えたいということと、それを会の資産として、将来への会の研究発展の条件を拡充したいということにあった。最初は研究チームのメンバーが私本を持ち寄り寄贈した書棚1個分であったが、これは昭和45(1970)年1月、突然の学舎の火災によって全焼した。一時は力を落したがまもなく本格的な「図書資料室」事業に着手したのである。

全会員に度々寄贈を呼びかけ、美術教育関係の古本、新本とりわけ明治初期以来の教科書を中心に蒐集を始めた。幸いこれを可能にする財源に恵まれたことも他に例を見ないことである。

当時会の財政は、本会編著になる中学校生徒向けの美術鑑賞教本が好評で、全国の学校で採用数を伸ばし、印税収入の安定によって、会費の低額方針を続けても毎年繰越残高を増加していくことができた。昭和45(1970)年以後の会計決算報告では、資産の利息収入が会費収入を上廻るような状態が続いた。しかしながら経済社会のインフレーションは確実に進行し、積立て資産の目減りは避けられないということもあって、本会の目的に副い将来を見越した価値の高い文献図書の購入に、思い切った予算を充当することとなった。ただし、図書資料の蒐集ということには当然、管理と運用の業務を伴う。当初は原簿登録事務などほとんど臨時募集の学生協力によったが、年間継続的かつ仕事の量的拡大により非常勤専従者を置いた。

図書購入の方針、分類整理の基本方式は、常任委で度々検討し、役員会で決めた。収蔵図書の各年度末実数は役員総会に毎年報告された。後年、平成12(2000)年管理責任者不在となる事態が起こり、大学図書館に移動されたが、その時登録番号では19.805であった。

「美術教育」という特定分野の収蔵では、全国の研究団体や関係大学はもとより、地方の一般図書館にも比類のない蒐集となり、昭和61(1986)年、主要部分蔵書の目録を刊行した。これは会員だけでなく大学関係集会でも配布したので、以後各大学(東京芸大、筑波大、大阪教育大、東京造形大、茨城大など)の研究者、院生、ゼミ授業に組み込まれた調査団などの来訪が相次いだ。

大会テーマに直結した資料蒐集では、再度の「絵本・アニメーション」や「マンガと美術教育」の際、世界の絵本と、各種各年代のマンガ本を集中的に大量購入し、中には一般図書館では短期に廃棄処分となるようなものまで遺されている。

美術鑑賞の教本は、戦後図画工作科の教科書がなかった時代に、地元京都では教委指導主事個人の著作2種が刊行され管下の中学校で採用されていた。本会発足後京都支部役員会でこれを不満とし、よりよい鑑賞教本の編集、刊行を志した。これが発端で、研究会の事業とすることとなったが当時は予算の裏付けもなく、編集場所や会合の交通費食費などすべて委員の自費による奉仕活動であった。昭和29(1954)年6月「日本と西洋の美術」は最初の出版で、会長(学長)の序文もあり、第五回研究大会ではその祝賀会が行われた。

この出版社は戦後数多い教科書出版をめざす1つであったがまもなく倒産し、本会は当時新進の大阪に本社を持つ教科書関係出版社と契約を結び、以後50周年の今日まで41回の刊行を続けている。

昭和31(1956)年当時は東京、名古屋、大阪、京都にこの種の副教本を刊行する出版社が20数社あり、それぞれ鎬を削っていた。昭和45(1970)年頃には大手5社だけがのこり、他はすべて姿を消した。しかしそれからの競争は名実ともに熾烈であった。特に教本の内容構成のアイデアや解説文など、先きに刊行している本会のものそっくりの類似本がすぐに出てくるということが度重なり、厳重抗議をしたこともあった。

平成12(2000)年、第52回大会において、47年間の本会出版になるすべての教本実物を、教師用解説書をも含め全41種を展示した。

昭和38(1963)年から昭和59(1984)年まで、印税支払い明細書によると、総冊数は9,813,000に上り、その学習者の中から少なからず芸大入学生もあり、本会会員となったつながりも無視できない。

本会の刊行物には、主として会員を対象とする会誌、会報の外に、外部に広く販布販売された、昭和53(1978)年の「現代の美術教育」と、平成6(1994)年の「美術教材事典」がある。

「教材事典」は本会発足のころからの会員300人の教育実践を、指導作品例によってまとめたものであり、このような事典は珍しい。これは幼(一部協力園)、小、中、高、大、普通教育 専門教育、養護教育、社会教育のすべてを網羅し、造形美術の全領域にわたる教材集で、本会会員の広範な実践記録というにとどまらず、広く斯界に貢献する意義も少くない。

その他会員の美術制作表現活動の面では、それぞれ個人としての発表が主であるが、本会支部の関わる作品展も行われてきた。中でも、百貨店の大会場を使う大作展は、本会発足前の「双線美術」では京都でも行われたが、大阪では天王寺の市立美術館で昭和56(1981)年、第1回展が開かれ、5回まで続いた。小品展は昭和39(1964)年から毎年年初に開かれ、平成14(2002)年、第39回に及んでいる。

京都支部双線展は昭和63(1988)年復活し、平成15年第16回を迎えている。兵庫、滋賀でも度々支部会員作品展があり 中部東海支部では昭和31(1956)年以来「赫赫展」8回、「花と土と人」展が平成13(2001)年までに14回行われている。

現地で直接実物に接する現地研修は 本会研修において格別に重視されてきたところであり、昭和30(1955)年、第10回大会以来毎年、近畿、中部、四国の範囲で、個人的には参観の難しい文化財を中心に、古社寺、古民家や美術館や制作場などを歴訪、研究例会でも毎年1回趣好を変えた見学地を選び現地研修を実施している。

海外研修においても、昭和45(1971)年、第1回インド東南アジア美術研修旅行から、平成14(2001)年、第28回「じっくりローマ美術研修の旅」まで、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカ各州の32ヶ国の著名な美術館博物館、美術遺産を訪ね、参加者は延べ880名を超えている。

かくして本会は、平成13(2001)年、発足50周年を迎え、6月23日の第53回大会の年次総会では、3年前から原案を提示してきた会則の全面的改正も終え、新しいスタートに立った。

会則の目的条項と、会員条項の改正は、会の性格を一新するものであり、従って大学との内外関係も変化をみることになる。

社会環境も、旧会則出発時とは大きく変化し、少子化の影響や、学校5日制と教育課程改定による先行き不安が漂っている中で、いかにして会員の研究、実践を高揚、深化し、美術教育の前途を拓いていくか、いよいよ本会の使命は大きい。

(川村善之記)

©2007京都市立芸術大学美術教育研究会

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